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筑後川遺産「デレーケ導流堤」その3

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    デ・レイケ導流堤に関する築堤の謎 -3

    連載

    佐賀財閥形成における大隈重信の影

     

    第二章 歴史的背景 (続き)

     

    3.三井物産会社の創設と若津港、そして大隈重信の郷土愛

     

     佐賀市史に若津港に三井物産明治10年若津出張店、佐賀市に三井銀行明治11年佐賀出張店の記述があります。  それに関して、三井文庫物産日記が入手できた。当時の社員の手で書かれた貴重な記述が多く、一級品の資料と推察できる。  これは明治近代化、殖産興業の流れ、地元佐賀では未発見の事実が読み取れる貴重な近代史文書であり、多くの事実が推測できる。まず、三井物産初代社長の自叙伝を原文のまま掲載する。私は実地を見る為、羽太紀克と古谷龍蔵とを連れて三池へ行った。横浜から馬関まで汽船、門司から先は人力車で行つた。古谷は九州米買入の手配をする為めに連れて行つたのであるから、三池へは連れて行かずに、長崎で落ち合ふ約束で、肥前の若津と云う處へやつた。若津はあの辺の米の集散地である。  三井物産会社の初出張である。周知のとおり三井物産の創業期の重要な取扱品は米、石炭、茶であることは再三、物産資料に頻出する。三井物産創設に関しては明治政府の重大指針が前提としてあげられる。  「輸出品ヲ以テ外債償却ノ儀」明治8年大久保利通と大隈重信が建議する。これはロンドン・オリエンタルバンク取扱いの日本初の外債500万円の償還に関するものである。これにより大隈は国策会社として三井物産設立に動くのである。極東の小国が外債を出せたのは前述したイギリス公使パークスの支援であり、この500万円は大隈の推進した日本初の鉄道開設、明治5年開業の新橋・横浜間の建設費388万円である。「大隈重信は三井物産を国策会社としてプロデュースした。」  三井物産会社として益田孝の初出張出発日の2週間後、明治9729日付で東京府より認可が下りている。それを受け御礼挨拶に社主三井家2名が大蔵卿大隈重信・伊藤博文・大久保利通・楠本・松方・河瀬・東京府参事・同勧業課長等へ訪問するとある。また、同月31日付で若津出張の古谷3千石買入したとある。「三井物産業務の祖は若津港にあった。」  前述したように三井物産会社「日記」によると物産は明治9731日の項で肥前米3千石を買取したとある。日記に表記される地名は、第一位「横浜」第二位「長崎」第三位「若津」でその若津表記は45回ほどに達する、現在は筑後川河口の片田舎である。江戸時代から継承された「九州米の一大集積地」若津での三井物産の肥前米買付は他を凌駕しているし、取扱は第一位である。  三井物産の出張店はなく、深川商店が代理店として機能したと思われる。ここで大隈重信の意向が働いたのではないかと推測する。明治10223日には肥前米・肥後米合わせて23252石の大量の米が動いているが、これは西南戦争での軍需米である。この内戦で深川嘉一郎は御用船として傭船契約を結び明治政府軍需品・兵員の輸送で巨利を得ている。「三井物産は明治のインターネットを活用した。」  ここでの表現、明治のインターネットは勿論、電信「電報」である。電信線は明治6年東京・長崎間が開通した。三井物産「日記」を読むと通信手段はこの電信を多用しており、契約書等以外は「電信セリ」「受電ス」のやり取りである。ちなみに明治2012月調「大日本電信線路図」を読み解くと電信機の数が中継地点毎に表示されているが、九州北部でのその数、長崎8機、下関7、佐賀3、博多2、小倉2、久留米1、若津2となっている、筑後川を挟み佐賀と若津の近距離で5機設置されているのは非常に興味深く、当時の肥前出身の政治家、官僚数と若津での経済活動が背景にあると推察する。

     

    国立公文書館 所蔵 (近代絵図大日本電信線路図 写)
    長崎街道
    投稿:

    特定非営利活動法人 大川未来塾
    特定非営利活動法人 みなくるSAGA

    理事 本間 雄治さん

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