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筑後川遺産「デレーケ導流堤」その2

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    デ・レイケ導流堤に関する築堤の謎-2

    連載

    佐賀財閥形成における大隈重信の影

     

    第二章 歴史的背景

     

    1.江戸時代後期における米廻船業、久留米藩豪商・林田正助

     

     若津港の歴史を語るには先駆者、江戸時代後期の久留米藩豪商「林田正助(1823年没)である。林田家は久留米藩の御用商人として田主丸に本店を構えていたが、正助は事業を継承し久留米藩随一の豪商となり大阪堂島に支店を構えました。藩からの請負による年貢米、大阪への米廻船を開設し、母港として三潴郡向島村若津に蔵を構えることとなった。1813年に手津屋若津蔵を創設、同年久留米藩に5,000両の大金を献上している。この「手津屋若津蔵」が深川嘉一郎の米商店として若津港で躍進する拠点と推察している。  林田正助は久留米藩の空米切手事件(1814年)の責任を転嫁され、事業の縮小をするに至る。しかし、正助の死後、約50年に肥前の気鋭の商人・深川嘉一郎が瀬戸内経由の大阪航路と米蔵を継承することとなる。若津港出入りの船籍は周防国29隻、伊予国16隻、大阪11隻、安芸・筑後各6隻、長門3隻、豊前・豊後各2隻、讃岐・肥前・筑前・備前・備後国各1隻となっており、九州の米の一大集積地であったに違いなく、筑後川は江戸期物流の高速道路の感がある。また、江戸期から明治初期にかけては大阪堂島の米相場に関して、「旗振り山」によると、全国に向け相場情報が山々を旗振り信号で伝わったとあり、その「西の最終地」は筑後若津と記されており、江戸期より、米中心の経済上重要な位置を占めていたのである。

     

    2.幕末、明治時代初期の佐賀藩と大隈重信、深川嘉一郎

     

     幕末から明治初期の佐賀藩は輝いていた、鍋島10代目藩主「鍋島直正」は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲製造、蒸気機関、電信、伝染病治療等の研究開発に多くの俊英を藩内外より登用している。当時としては日本有数の近代化、西洋化政策である。しかも、この佐賀藩近代化政策の中枢は筑後川支川早津江川に創設された佐賀藩三重津海軍所(1858年)であり、明治維新後の日本、「殖産興業の種」がこの地で蒔かれたといっても過言ではないと言える。  1865年大隈重信は長崎五島町に英学塾「致遠館」を設立し、その翌年宣教師フルベッキを校長として招聘することとなる。この「致遠館」には大隈重信、副島種臣等の明治維新の偉人たちが学び、大隈重信が大政治家へと昇華する礎であり、明治の文明開化へと連なる。  大隈重信は明治元年、政府の徴士参与職に任じられ上京する。一方、深川嘉一郎は佐賀藩の蔵方御用達として活躍していました。大隈らの要請により他の佐賀藩御用商人と共に「長崎致遠館」の設立資金やフルベッキの給与を供出することとなる。  大隈らの「長崎致遠館」設立の前年、嘉一郎は佐賀藩長州追討の軍資金を拠出しており、致遠館運営資金と合わせると相当な財を米取引で蓄積していたと推定できる。明治維新後、嘉一郎は藩主所有「神幸丸」の拝借を受け、長崎を経て大阪航路を明治4年に開設する。「深川商店(創立明治3年)」と称した嘉一郎は明治10年に若津支店を開業し、以降は筑後若津港を拠点に米取引と海運業へと進出する。

     

    明治期の手津屋若津蔵
    煙突写真
    上記、筑後川絵図の中央「手津屋若津蔵」は幅4間、長さ25間と久留米藩文書より推定されておりますし、特徴的な蔵絵を示している。 石垣の護岸に囲まれた「手津屋若津蔵」が明治期の深川別邸写真にあることが判明した、恐らく新しい発見である。
    古地図
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    特定非営利活動法人 大川未来塾
    特定非営利活動法人 みなくるSAGA

    理事 本間 雄治さん

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